石屋を志すなら、まず小僧の修業を数年積んで、職人、棟梁と進み、ある特定の人間だけがその上の親方になれた。十代前半で島にやってくる小僧の中には、つらい仕事に逃げ出す者もいた。中四国方面からの職人も多く、今でいう単身赴任である。仕事は夜明け前から始まり、日が暮れるまで石切唄とともに行われた。唄に合わせると作業の能率が上がるというので上手に歌う職人には割増賃金が出されたらしい。海は近いし、魚はうまいし、白米は食べられるし、お金にもなる。
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つまり島の男たちは、毎日の生活を楽しみ、開放感を味わいながら、石を愛し、石に取り組み、強烈で厳しい作業を行っていたというわけだ。島にはあるルールがあって、山主は石屋との間に山手料という5年ほどの賃借契約を結び、採掘された石は制限なく自由に売買された。実際、石が多量に出れば、石屋(親方・棟梁)は潤い、職人たちは美酒を口にできた。しかし運悪く石が出なかった時は、石屋は島を出、職人たちは丁場を転々とした。大胆な夢と命賭けのリスクの両面性をもつ男の世界がそこにはかつて存在した。
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また、戦時中のこんなエピソードも残っている。米が配給制になり当然、島にも白米は入らなくなるのだが、限りない体力を必要とされる採掘職人にとってこれほどの痛手はない。当時の石材採掘組合長は県側に何度も白米支給の嘆願書、陳情書を提出している。ここにも、徒弟制度をもちながら職人たちを優遇していた経営ぶりに、進取の心は生かされていた。
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