大正八年十二月の寒い冬、島に一通の依頼書が届いた。依頼書の内容は明治神宮での造営にあたり、北木石を使用することを伝える旨であった。 そのかげには、一人の明治の男が存在した。男の名は畑中平之■。この男こそ「北木みかげ石」の名を全国に送り出した、立て役者である。ちなみにこの畑中が始めた商売は百年以上の歳月を経た今日も、その成果を点在する幾つかの建築群のなかに見事に残している。 それらはまるで歴史の生き証人のように私たちの周辺を取り巻いているのだ。

 「石の島」北木島に生まれた畑中平之■にとって、島の石は自然が与えてくれた美の産物であったのだろうか。島肌に露出した花崗岩の素質の良さ(他の産地石比べ、きめ細かくソフトな柔らかさを持つ)に着目した畑中はその魅力を売り出そうと飛びついた。羽織袴を身に付け、西に東に疾走したかいあって、膨大な量の石が北木から全国へ放たれた。そして明治二十三年には日本銀行本店の石材工事という大掛かりな国家事業を手掛け、これを契機に以後、日本の歴史的建築の数々をこなしていくようになるのである。「島の石」を特異な情熱で全国に向けて発信し続けた、畑中という男の輝かしい功績である。
 昭和初期、丁場(石切場)の数は150、160箇所にも膨らみ「石の島」は全盛期を迎える。その名を全国的に轟かせたのは昭和八年に奉納された、直径1,2メートル、長さ12メートル、重さ50トンの靖国神社大鳥居であろう。当時の新聞には「日本一の大鳥居」という大見出しが並んだ。掘出された巨石が北木から船積みされ神戸〜東京芝浦まで瀬戸内海を渡り、陸揚げされ、九段下の靖国神社に無事建立されるまでの、かなりの苦労の様子が記事には掲載されており、ひとつの国家的事業を実現しようとする人びとの真剣な表情がそこにはある。
 北木石を使った主な建築物は次の通りである。
…東京不動銀行本店(旧館)、第一銀行本店(旧館)、日本銀行本店(旧館)、明治生命本店、靖国神社大鳥居、神奈川県立博物館、日本銀行大阪支店、三井銀行船場支店、大阪証券取引所、三井銀行大阪支店、三菱銀行南支店、日本生命本社、三和銀行京都支店、京都五条大橋、薬師寺金堂、薬師寺西ノ塔、南海難波駅コンコース、阪急梅田駅コンコース、帝産中ノ島ビル、金光教本部、大和銀行本店(旧館)、中之島公会堂、同志社大学…・・。 最近では岡山県立美術館等がある。

北木の石TOPHOME

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